インフルエンザに罹った幼児(主に1〜5才)に、脳浮腫(脳全体が腫れる)や、脳圧亢進(脳内の圧が上昇)が生じ、その結果、けいれん、意識障害、異常行動などの急速に進行する神経症状がみられ、さらに、血管が詰まったり、多くの臓器が働かなくなり、その結果、命に関わる重篤な疾患をインフルエンザ脳炎・脳症といいます。
脳炎と脳症との鑑別は厳密には難しいですが、一般的に、脳内に直接ウイルスが浸潤して、炎症を起こす場合を脳炎といい、脳内にウイルスが検出されず、過剰な免疫反応が見られる場合に脳症と診断されています。
脳炎・脳症とも症状は似ていますが、より重症な疾患は脳症ですので、ここではインフルエンザ脳症を中心にお話します。脳症の発症は急激で、インフルエンザに罹ったその日から1〜2日くらいで発症します。約80%が発熱後、数時間から1日以内に神経症状が見られています。わずか1日足らずのうちに重症になることもあります。朝に発熱したら、夜は人工呼吸器を装着していたというようなこともあります。特に有効な治療法もなく対症療法のみです。
かつては年間100〜200人くらいみられていましたが、最近は少なくなっています。脳症の患者の殆どが幼児(主に1〜5才)です。この年令は熱性けいれんも起こしやすい年令であり、熱性けいれんと脳症によるけいれんとの鑑別が難しいこともあります。けいれんを起こしたからといって、全てが脳症というわけではありません。
残念ながら、インフルエンザに罹った場合、どのような時に脳症になるのか予測する手段はありません。以前は、A香港型でよくみられましたが、現在はA(H1N1)2009でも多くみられるようになりました。また、稀ではありますが、B型でもみられます。なぜか日本に多く見られます。
かなり前の話ですが、クレタ島で開催されたインフルエンザの国際学会で、インフルエンザ脳症を発表した日本の医師は、欧米の医師たちから「そんな病気はインフルエンザではない。あなたは間違っている。」といわれたそうです。ただ、同じ会場にいた東南アジアから来ていた医師からは「確かにそういう病気はある。」といわれたそうです。もしかしたら脳症の発生には人種的な差があるのかもしれません。
ところで、脳症は、なぜ起こるのでしょうか。まだ、はっきりと原因が解明されていませんが、次のような仮説があります。
インフルエンザウイルスは、最初、鼻粘膜に感染して、ここで増殖して全身に広がります。当然、脳内にもウイルスが侵入していると思われます。ところが、脳症では、脳内からウイルスが検出されたことは殆どありません。つまり、脳症はウイルスが直接脳内に侵入しなくても発症するのです。
なぜでしょう。インフルエンザの病原性(毒性)は、きわめて強く、このため体を守る働きをする免疫系が強烈なダメージを受けます。免疫を調節し、体内に侵入した病原体を排除する物質を“サイトカイン”と言います。サイトカインには多くの種類があり、相互に連携を取り合って働いています。これを“サイトカインネットワーク”と言います。インフルエンザは、この“サイトカインネットワーク”を障害します。その結果、過剰な免疫反応、言い換えれば、免疫の暴走が起きて、「高サイトカイン血症」という状態になります。
脳内では、「高サイトカイン脳症」という状態になり、免疫が正常に機能しないため、脳細胞が障害を受けて、けいれん、意識障害、異常行動などが見られるようになります。
さらに多くの細胞が障害を受け、全身状態が悪化すると、呼吸が止まったり、血管が詰まったりし、多くの臓器の障害(多臓器不全)へと進み、命に関わる重症となります。
鼻粘膜に一番近い脳は、側頭葉といって、<感覚・感情を調整する働き>を持っています。ですから、側頭葉が障害を受けると、感覚・感情の変化→幻覚・幻聴などの異常行動がみられることになります。
以上まとめますと、脳症の進行は次の四段階に分けられます。
@.ウイルスの感染と鼻粘膜での増殖 (この段階の症状は、熱、鼻汁、咳などのカゼ症状)
A.免疫系の障害→高サイトカイン血症 (脳内では、高サイトカイン脳症→けいれん、意識障害、異常行動)
B.多くの細胞が障害を受け、全身状態が悪化
C.血管が詰まったり、多くの臓器の障害 (血管炎〜多臓器不全)
発症は急激で、80%は発熱後、数時間から1日以内に神経症状がみられます。よく見られる症状は、★けいれん、★意識障害、★異常行動などです。
★ けいれん:60〜80%に見られ、全身がガタガタ震えるような硬直性が多く、持続時間は一定せず、短い場合は1分足らずです。短時間でおさまるような場合は、「熱性けいれん」の可能性が高いです。
けいれんが、「10〜15分以上続く場合、時間は短くても何回も繰り返す場合、左右対称的でない場合」このような場合は単純な熱性けいれんではありませんが、だからといって、脳症によるけいれんともすぐ判断はできません。
★ 意識障害:起きているのか、寝ているのかわからないような状態です。「呼んでも返事をしない。少しくらいの痛みには反応しない」ような状態です。この場合は「寝ぼけ」と区別する必要があります。普通の「寝ぼけ」は何回か声をかければ目を覚ましますが、症状がどんどん進むようでしたら要注意です。
★ 異常行動:「インフルエンザ脳症患者家族の会」が行ったアンケート調査から次のような事例が挙げられています。
インフルエンザ脳症における前駆症状(まえぶれ)としての異常行動・言動の例
・両親がわからない。いない人がいるという。(人を正しく認識できない)
・自分の手を噛むなど、食べ物と食べ物でないものとを区別できない
・アニメのキャラクター・象・ライオンなどが見えるなど、幻視・幻覚的訴えをする
・意味不明な言葉を発する。ろれつがまわらない。
・おびえ、恐怖、恐怖感の訴え・表情
・急に怒り出す、泣き出す、大声で歌い出す
こういう症状は、持続時間が短ければ「熱性せんもう」と言えますが、脳症の場合は持続時間が長いです。どのくらいの時間を長いと言えばよいか基準はありませんが、意識障害と同様に、症状がどんどん進むようでしたら要注意です。
上記のような、★けいれん、★意識障害、★異常行動は、脳症が疑わしく、入院経過観察が望ましいと思われます。一般の診療所では対応が困難ですので、早めに総合病院を受診して下さい。
日本でよく見られる幼児のインフルエンザ脳症はライ症候群と同じものではありません。
インフルエンザや水痘(水ぼうそう)などに罹った時、解熱剤(特にアスピリン)を服用している小児が、急性脳症や、肝臓の脂肪浸潤を引き起こして、命にかかわる重症な病気になる事があります。これをライ症候群といいます。
ライ症候群は、オーストラリアの病理学者ライによって最初に報告され、1980年代にアメリカでよくみられました。死亡率も高い病気です。初めは、解熱剤のアスピリンを多量に内服することが原因と考えられました。その後、必ずしもアスピリンが原因というわけでもないと考えられるようになり、現在は原因不明の脳症となっています。
しかし、多量にアスピリンを内服してライ症候群を起こした例も多く、また、アスピリン以外の解熱剤でも同様の症状がみられることもあることから、インフルエンザでの解熱剤はなるべく使用しない方が望ましいです。また、インフルエンザ脳症においても解熱剤は重症化させる場合があるため、やはり解熱剤はなるべく使用しない方がよろしいです。
脳症の原因として、「過剰な免疫反応〜免疫の暴走」による「高サイトカイン血症」が考えられています。ワクチンは「高サイトカイン血症」を直接防ぐことは出来ませんが、その原因となる「過剰な免疫反応〜免疫の暴走」を予防して、脳症の発症を防ぐことが出来るかもしれません。
私たちの体内に病原菌が入ってくると、免疫細胞は悪者が入ってきたと認識して悪者(病原体)を退治してくれます。カゼのような病原体は小者ですから、免疫細胞が速やかに対処してすぐに治ってしまいます。
しかし、インフルエンザウイルスは大者の悪者です。全く予備知識がない状態(ワクチンを接種していない状態)では免疫細胞が戸惑ってしまい、インフルエンザウイルスの特徴を正しく分析できず、誤った情報を免疫細胞が持つことになります。その結果、インフルエンザウイルスを退治するどころか、自分の細胞を攻撃したりします。これが「過剰な免疫反応〜免疫の暴走」です。
あらかじめ、インフルエンザワクチンを接種して免疫細胞に予備知識を与えておけば、免疫細胞はインフルエンザウイルスの特徴を正しく分析して、インフルエンザの侵入に備えています。ですから、インフルエンザに感染しても免疫は正しく反応して「過剰な免疫反応〜免疫の暴走」を引き起こす事はないと思われます。
このように、インフルエンザに罹る前にある程度の免疫を作っておくこと。つまり、インフルエンザワクチンが脳症の予防に効果的ではないかと考えられます。
抗インフルエンザ薬を使用すれば速やかに解熱しますが、抗インフルエンザ薬はインフルエンザウイルスの増殖を抑える働きはあるものの、直接免疫反応に働きかけることはありません。
脳症の原因が、インフルエンザウイルスの脳内侵入ではなく、「過剰な免疫反応〜免疫の暴走」ならば、抗インフルエンザ薬は脳症に対してあまり有効とは考えがたく、発熱期間を短縮する薬、周囲に感染を広げないようにする薬という捉え方が良いかと思います。